目次
丸亀城から見えてきた金毘羅街道|丸亀港から150丁、旅のはじまり
丸亀城の大手門に立つと、その向こう、石垣の上に小さな天守が見える。
何度も訪れている丸亀城だが、今回は少し違った目で歩いてみることにした。
城だけではなく、その周囲に広がっていた城下町を見る。
さらにその先、瀬戸内海と讃岐平野へ目を向けてみる。
すると、丸亀という町のもうひとつの姿が見えてきた。
かつて多くの旅人が海を渡ってこの町に入り、ここから金毘羅を目指して歩いていた。
丸亀城を訪ねた一日が、金毘羅街道を歩く次の旅へとつながった。

城だけではなく、城下町を見る
丸亀城は標高約66mの亀山に築かれ、その周囲を堀が囲んでいる。
現在も大手門の前に立つと、水堀と石垣が城と町をはっきり分けていることが分かる。

現在の丸亀市中心部は市街地になっているが、江戸時代にはここに計画的な城下町が広がっていた。
丸亀市立資料館の展示によると、城の周囲には武家屋敷が置かれ、その北側を中心に商人や職人が暮らす町人地が形成されていた。
現在の大手町、六番丁、一番丁、城東町周辺には武家屋敷があり、丸亀城正面の大手町付近には中・上級家臣の屋敷が並んでいたという。
一方、その北側には町人たちの暮らす町が広がっていた。
城があり、武家屋敷があり、町人町がある。
さらに北へ進めば、瀬戸内海へつながる。
丸亀城だけを見ていると気づきにくかった、町全体の形が少しずつ見えてくる。

発掘された江戸時代の道
丸亀市立資料館では、城下町の発掘調査についても紹介されていた。
そこで目を引いたのが、地下から見つかった江戸時代の道路だった。
発掘された道路は東西方向に延び、両側には排水溝が設けられていた。
道路幅は約7.9m。
当時の単位では4間ほどになる。
路面には砂などを敷いて固めた痕跡があり、さらに何層もの路面が重なっていたことから、長い間に何度も補修されていたことも分かっている。
城下町の道路は、人が歩いた痕跡として今も地面の下に残っていた。
何気なく歩いている現在の丸亀の町。その下には、江戸時代の町と道が重なっている。
そう考えると、これから探そうとしている金毘羅街道も、単なる「昔の道」ではなくなってくる。
現在の町の中に残る道を、過去へ向かってたどってみたくなった。
石垣を上り、丸亀の町を見渡す
城下町を意識しながら、丸亀城へ上っていく。
高い石垣の間を縫うように坂道が続く。

さらに上ると、石垣の向こうに天守が姿を見せる。

丸亀城の上まで来ると、町の見え方が大きく変わる。
北には丸亀の市街地。その先には瀬戸内海が広がる。

現在は建物や道路が広がっているが、かつてこの海を渡って、多くの旅人が丸亀へやってきた。
その大きな目的のひとつが、金毘羅参りだった。
海から丸亀へ入り、そこから南へ。
城の上から町を眺めていると、丸亀が海と讃岐平野をつなぐ場所にあることがよく分かる。
北には丸亀の市街地。その先には瀬戸内海が広がる。
丸亀市立資料館で、昔の丸亀を探す
城を下り、丸亀市立資料館へ向かった。

館内には丸亀城や城下町に関する絵図、発掘調査の成果、地域の歴史資料が展示されている。
なかでも興味深かったのが、江戸時代の丸亀を描いた絵図だった。

江戸時代の讃岐国絵図を見ると、現在とは違う町や土地の姿が残されている。
丸亀城にも少し複雑な歴史がある。
生駒親正が1597年に丸亀に城を築いたとされるが、1615年の一国一城令によって丸亀城は一度廃城となった。
その後、1641年に山崎家治が丸亀藩主となり、城の再築に着手する。
さらに1658年には京極高和が丸亀藩主となり、京極氏による丸亀藩政へつながっていった。
寛永10年頃の讃岐国絵図では、高松城が描かれている一方、廃城中だった丸亀城は描かれず、「亀山」だけが記されているという。現在当たり前のようにそこにある丸亀城も、長い時間の中では姿を消していた時代があった。
城下町もまた、城とともに少しずつ形を変えてきた。
丸亀城下には武家の町と町人の町があった
資料館には、山崎氏の時代の丸亀城下を描いた「讃岐国円亀城絵図」も紹介されていた。
絵図を見ると、城下町の構造が分かりやすい。
外堀の内側には家臣が暮らす侍町があり、その外側にも下級家臣の屋敷が広がっていた。
北側には「新町」と記された町人町。
さらに海岸沿いには、生駒氏の時代から形成されていた「古町」と呼ばれる町人町もあったという。
城と海の間には、人々が暮らす町があった。
後の時代、海から金毘羅参詣の旅人がやってくるようになると、この立地が大きな意味を持つことになる。
丸亀は城下町であると同時に、海から人を迎える町でもあった。
『金毘羅参詣海陸記』に描かれた旅
資料館の展示を見ていくなかで、今回もっとも興味を引かれた資料があった。
『金毘羅参詣海陸記』。
安永7年、1778年に今村美景によって著された、金毘羅参詣の案内書だ。

金毘羅参詣は、もともとは信仰を目的とした寺社参詣だった。
しかし江戸時代中期以降、街道や宿場が整い、各地で「講」が発達すると、参詣はますます盛んになっていった。
旅人のための案内書や絵図も刊行されるようになり、金毘羅参りには次第に旅や観光としての性格も加わっていく。
『金毘羅参詣海陸記』も、そんな時代につくられた旅の案内書だった。
そこには大坂から金毘羅までの、陸路と海路の行程が紹介されている。
大坂から海を渡り、讃州丸亀港へ
当時、金毘羅を目指す旅人の多くは海を渡った。
『金毘羅参詣海陸記』の展示解説によると、大坂の道頓堀、大川筋、両堀川、長堀橋などの渡海場から船が出ていたという。
船は瀬戸内海を西へ向かう。
風と潮を避けながら進み、数日後には讃州丸亀港へ着く。
その船は「金毘羅船」と呼ばれた。
旅人が宿泊する宿は「金毘羅宿」。
船宿や船には幟が立ち、各地の宿が連携していたため、旅人は船と宿を確保しながら金毘羅まで旅を続けることができたという。
海路、船宿、城下町、街道。
金毘羅参りを支える、ひとつの旅の仕組みができていた。
その瀬戸内側の入口のひとつが、丸亀だった。
丸亀港から金毘羅まで「150丁」
そして、『金毘羅参詣海陸記』の説明の中に気になる言葉を見つけた。
丸亀港から金毘羅まで、陸路150丁。

一丁は約109m。
150丁なら、およそ16kmになる。
今なら丸亀から琴平まで車や電車ですぐに移動できる距離だが、江戸時代の旅人は丸亀港で船を下り、ここから歩き始めた。
丸亀の城下町を抜け、讃岐平野を南へ。
その先に金毘羅があった。
絵図には山や川、集落とともに、旅人が進んだ道が描かれている。


古い紙の上に描かれた一本の道。
それを見ているうちに、「150丁」という距離がただの数字ではなくなってきた。
江戸時代にも旅のガイドブックがあった
もうひとつ興味深かったのが、弘化4年、1847年に刊行された『金毘羅参詣名所図会』だった。

こちらには街道沿いや金毘羅周辺の名所旧跡が、文章と絵で紹介されている。
今でいう旅行ガイドに近い。
どの道を進むのか。
途中に何があるのか。
どんな景色が見えるのか。
200年近く前の旅人も、こうした案内書や絵図から行く先を思い描いていたのだろう。
旅に出る前に地図を眺める楽しさは、今とそれほど変わらなかったのかもしれない。
1778年の『金毘羅参詣海陸記』から、1847年の『金毘羅参詣名所図会』へ。
金毘羅参りが多くの人にとって大きな旅となり、それを支える情報も充実していった様子が見えてくる。
もう一度、丸亀の景色を見る
資料館で古い絵図や旅の記録を見たあと、最初に城の上から眺めた丸亀の景色を思い返した。

向こうに瀬戸内海がある。
そこから金毘羅船がやってくる。
丸亀港で船を下り、城下町へ。
そして讃岐平野を南へ歩いていく。
最初は別々に見えていた、
瀬戸内海、丸亀港、丸亀城、城下町、金毘羅。

資料館で昔の丸亀を知ることで、それぞれが一本の道でつながっていった。
丸亀港から、実際に歩いてみる
資料館を出るころには、次に歩いてみたい道が決まっていた。
丸亀港から金毘羅まで。
『金毘羅参詣海陸記』に記された、150丁の道だ。
現在の丸亀には、金毘羅街道の記憶を伝える太助灯籠、中府一の鳥居、道標や丁石が残っている。
古い絵図に描かれた道は、現在の町のどこにつながっているのか。
江戸時代の旅人が歩いた道は、どこまで残っているのか。
そして、丸亀港から金毘羅まで実際に歩くと、どんな景色が見えてくるのか。
丸亀城を訪ねた一日が、ひとつの古い道へとつながった。
次は丸亀港へ。
江戸時代の旅人が歩いた150丁を、自分の足でたどってみる。
次回予告 👉丸亀港から金毘羅街道を歩く
立ち寄りメモ
丸亀城大手門 → 丸亀城天守 → 丸亀市立資料館
所要時間:ゆっくり見学して2時間ほど
駐車場:丸亀城内・資料館南側に無料駐車場あり(約50台、6:00〜19:00)
見どころ:城上から見る丸亀市街と瀬戸内海、城下町の絵図、金毘羅参詣の資料
歩き方:城内は急坂あり。歩きやすい靴で
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